10年前のできごと

 2011年3月11日14時46分…マグニチュード9.0の大地震が発生し、さらに巨大な津波により東北地方と関東地方の沿岸部に壊滅的な被害となった。情報も錯綜し、混乱が続く中、翌12日15時36分…福島第一原発1号機の原子炉建屋が水素爆発した。遠い昔に遠い国で起きたメルトダウンが、安心安全な日本の原発で起きてしまったことが大地震と同じくらい大きな衝撃だった。福島県、東北地方、関東地方には住めなくなると考えた人は多くいたと思う。しかし、私たちは福島に住み続けることを選択した。

 震災と原発事故によって、私たちは日本中から蔑まれ、同時に優しさを貰うという複雑な経験をした。このことにより、ふるさとを守るという思いが高まり、日常生活における防災意識と郷土愛に対する価値観に変化があったことは、言うまでもない。

今回の記事では、当時の価値観の変化に対応してきたことを振り返り、ポストコロナを生き抜くヒントを探していきたいと思う。

震災を通して感じたこと

あの時、仙台の内陸部にいました。文字通り大地が揺れ、大型の車がウサギのように跳ねていた光景を今でも覚えています。

数日間の避難所生活をしました。どこにも電気の明るさがない闇の中、今までで一番綺麗な星を見ることができました。震災からしばらくは余震が続いていました。小さい揺れから大きな揺れまで、朝から晩まで揺れ続けていたような気がします。揺れがおこるたびに、近くの駅のブロックが生き物のようにうねり、私たちが避難していた建物は軋みました。外を歩いていても「いつ足元が崩れるかわからない」、避難所で休んでいても「いつ建物が崩壊するかわからない」。否が応でも、自分の『死』を常に意識させられながら日々を過ごしました。

避難生活をし始めて数日、テレビやラジオが避難所に届きました。そこで、初めて津波の被害を知りました。そして、そこでもまた自分の『死』を意識しました。数日後には、私たちも仙台の海が見える場所に行く予定になっていたからです。

この時から私の人生は全く違ったものになりました。食べることができて当たり前、寝ることができて当たり前、家があって当たり前、自分が生きていて当たり前。そんな当たり前が一瞬にして奪われたあの時から、あらゆる物事に感謝をしながら生きることができるようになりました。私たちの身の回りに、当たり前に存在しているものなどありません。私たちが生きていることも、当たり前ではありません。遅かれ早かれ、私たち人間はみな平等に死んでいきます。いつどのタイミングで、それが訪れるのかは、誰にも分かりません。だから私たちは、精一杯の感謝を込めて生きねばならないと思っています。今生きている自分の命に感謝を燃やし、生きねばならないのです。無駄な時間などありません。今、この瞬間を精一杯に生きましょう。それが、多くの命と多くの「当たり前」を奪っていった、あの災害から学ぶべきことではないかと、私は思っています。

(NPO法人かけはし 代表・(一社)会津喜多方JC 石島来太)

その時、会津喜多方JCは…

2011年度理事長・角田龍一先輩に、震災当時の会津喜多方JCの様子や対応を伺った。(聞き手:石島来太)

地震発生当時の会津喜多方JCの状況を伺います

「地域的に被害の差があったと思うがニュースで見ているうちに、県内の被害状況がすごいことになっていると感じ始めました。その晩に、三役でJC会館に集まって今後の対応について話し合いの場を持ったと記憶しています」

その場では具体的にどんな話をされましたか

「まずは状況を整理しました。これからJC活動が本格的に始まっていく中で、予定していた事業をどう開催していくかなど、事業計画の内容を会議しました。すぐに支援活動を実施するという状況ではありませんでした」

被害が明らかになっていく段階で、団体としてどのような取り組みをしましたか

「徐々に、浜通りの被災者の方々が喜多方市に避難をされてきました。被災者が避難して来ている状況で、団体として何ができるかを話し合いました。OBからも『現役世代はどう支援するのか』などと声もあって、当時は昼も夜もJC会館にいた記憶がありますね。昼間からOBとともに集まり、設置されていた市対策本部に出向き、被災者に対してどのような支援が必要かなどを協議しました。喜多方市は被害が少なかったので、支援する側の立場として市と相談し、飲料水を届けるためのタンクの借り入れ交渉などを行いました」

被災者支援ではどのようなことを行いましたか

「避難者にラーメンの炊き出しをしました。これまでも、災害時に水の配達などを行っていて、支援に関するノウハウが少なからずあったため、OBの関連企業に必要物資をお願いして、ラーメンの提供にこぎ着けました。食べ物の提供が最小限との話が耳に入ってきたため、食事を楽しんでもらおうと、ラーメンの提供に至りました。被災者からは『温かいご飯を久しぶりに食べることができた』などと感謝の声をいただきました」

支援する中で心掛けていたことは何ですか

「相手側に恩着せがましいと思われないよう、被災者の方が本当に求めている物を常に考えながら、支援業務に励みました。一方的に支援するのではなく、支援内容を提案しながら、向こうが望む物を提供しなければとの思いで行動していました。炊き出しでいわき市に行った際、当時は物資もガソリンも全くない状態でした。そのような状況で、勝手に行っても迷惑になると考え、現地JCに『ラーメンの炊き出しをしたいが、どうすればよいか』と事前に相談しました。JCのOBに協力をいただいて、小学校の体育館に集まってもらい、ラーメンを提供しました。当時は一方的な支援だけに終わらないよう注意し、行動していましたね」

被災地のJCからの反応などはありましたか

「来てくれた方々は喜んでくれていました。支援活動の一環で、その地のJCと一緒に活動する事業もありました。その一つが子どもたちに対するレクリエーションです。遊ぶ環境が少なかった子ども達を喜多方に招くなど、支援から継続事業に発展したものもあります。被害の大きかったJCに出向いて計画を立て、年1回程度の開催が震災後も数年続きました」

震災当時の会津喜多方JCも混乱していた時に、トップとして会員に呼び掛けていた言葉はありましたか

「当時は初めての経験で、何をすべきか悩みましたが、メンバーが様々な考えを持って、行動した方がエネルギーが強いと考えました。最初は三役からその意識で動き始め、それが若いメンバーに波及していき、出てきた考えに対して、私がゴーサインを出していました。これまでの経験と活動の積み重ねが、会員をそういった思いにさせたのではないかと考えています。理事長になれば分かると思いますが、リーダーの性格によって対応方法はさまざまです。ただ、JCとしての活動の実績があるわけですから、それが全てです。これからどうしていくかという、会員の考えが豊富だったように思います」

震災以降の会津喜多方JCの活動状況について教えて下さい

「年間事業計画はいったん見直しました。三役を中心に集まって、現実的に例会自体の開催が可能なのかどうか、開催が難しいものに関しては中止の判断をした事業もあります。多少内容を変更して、実施できる事業は行いました」

被災地に思いを寄せるために必要な考え方とはどのようなものですか

「被災者の気持ちを最大限に考えての行動が重要です。その辺は十分みんなで話し合い、支援活動はOBの力も借りて実施しました。飲料水の提供などの支援活動に出向いたときに、全国各地から同時期に救援物資が送られたため、管理スペースの確保が難しくなり、使える物・使えない物の選別が難しくなっていた現状が分かりました。被災地に行かないと分からないこともあり、受け入れてもらえる状況でなかった時もあります。喜んでもらえて当たり前の感覚で支援すると、気持ちのギャップが生じます。ただ支援するのではなく、被災者の思いに寄り添うことが必要です」

コロナ禍で理事長になっていたとしたらどう行動していましたか

「時代に合った正しい行動の答えはないと思います。その時に考えられる最大の行動をするのが大事だと感じます。今の現役会員がどのような行動を取るのかが逆に気になりますね。現役を離れてしばらく経ったので、なかなか深く考える時間が少なくなりました。当時は、毎日、様々なことを考えていました。JC会館に来ればみんなで考えて、話し合って、の繰り返し…JCらしい行動だったのかなと思います。一つのことを考えて行動する団体は貴重な存在です。それはJC以外の団体に所属してから分かった部分でもあります。JCとしての活動をしていれば困難も乗り越えられるはずです。他の組織・団体でまねはできません」

震災後10年間で変化したこと、しなかったことについて教えてください

「強いて言えば、世間一般的な物事として考えたときに、人と人とのつながりが希薄だった時に、震災が発生しました。人々が助け合う行動があちこちで垣間見えました。コロナ禍と対比するのは難しいですが、現在は解決の糸口が見えない状況で、活動自粛と言われ、助け合うことが難しいと感じています。私自身でみると、10年で変化したことは要領がよくなりましたね。変わらなかったことはJCとしての考え方です。最初に対外的な活動に参加したのがJCでした。卒業後もさまざまな団体に入って、振り返るとJC時代は考え込んでいたなと。人の考え方を否定せず議論し、より良い物をつくっていく。一つの委員会で考えたものが、周りの人に見てもらい、組織、会津地方、県に広がっていく。多くの人が物事を見て捉える視点が素晴らしい事業構築につながっていたと思います」

理事長を経験して得た学びと自身の成長の糧になったことを挙げて下さい

「勉強の毎日でした。周りのメンバーに成長させてもらったのが一番ですね。持ち回り的に理事長が決まることが多い中で、思いや考えはどうしても後付けになってしまいます。その時に助けてもらうのが周りの会員です。震災時も、多様な意見を出してもらい助けていただきました」

最後に現役世代にメッセージをお願いします

「これまでも多様な困難を乗り越えてきていると思います。JCは長い歴史の上に成り立っています。OBが久しぶりに来ても、常に変わらない雰囲気などJCには『らしさ』があります。JCらしい物事の考え方が一番いいと思います。当事者たちは常日頃がむしゃらにやっていて、正解が分からないと思いますが、自分たちのやっていることに自信を持つべきです。これからも変わらずにJCという組織に誇りを持って活動していただくことを期待しています」

角田 龍一 氏

(株)日東商事 代表取締役

2011年度 (一社)会津喜多方JC 理事長

2014年度 福島ブロック協議会副会長

喜多方ロータリークラブ、福島県中小企業家同友会、会津喜多方法人会青年部所属

新型コロナがもたらした価値観

 ここまで、東日本大震災について振り返ってきた。震災前の生活は、衣食住が当たり前にあり、平和に生きていることに特別な意識もなかった。それが震災により一変し、当たり前のことに感謝をして生活するようになった。しかし、直接的な被害がなかった人にとっては、いつしか、そんな感覚は忘れてしまっていたと思う。そこに新型コロナの蔓延である。震災とは少し感覚が違うが、当たり前の生活に感謝していたことが思い出されたのではないだろうか。

 人間関係はどうか。角田先輩の言う通り、震災前は人と人とのつながりが希薄になっていることが社会問題でもあった。そんな時に震災が発生したが、国難を乗り越えるために人々が実際に手を取り合う姿が多く見られた。現在は物理的に接触することが難しくなり、リモートワークやVRを利用したイベントなど、Webを通じて様々な取り組みが進んでおり、デジタルな世界で支え合う姿が多く見られるかもしれない。

 いずれにせよ、人は支え合って生きていることを、新型コロナにより再認識したことは言うまでもない。

私たちは何処へ向かうべきなのか

 現在、デジタルな世界で何事も体験できる時代になってきているし、コロナ禍により、進歩のスピードは上がったと思われる。例えば、VRを利用すれば、自宅にいながら世界遺産を巡り、大自然の中を散策することもできる。また、Web上に自分のアバターを作り、好きなアイドルのコンサートにも行ける。精度はともかく、かつて映画やアニメに登場した未来が目の前にあるのだ。こんなに心躍ることはないと思っていたが、イマイチそうでもない。それは何故なのか、何が足りないのか、注意深く考えを巡らせる必要がある。

次回は、「喜多方のポストコロナ①~作る・食べる・見る・遊ぶ~」と題して、喜多方の未来を産業界の皆さまと語ります。